2011年11月7日月曜日

高橋ユニオンズOB会レポート!


※2011高橋ユニオンズOB会(ピンボケ写真でスミマセン)


ご報告が遅れてしまったものの、
10月29日、都内で高橋ユニオンズOB会が開催された。

球団関係の参加者は選手6名、フロント1名の計7名。
チーム消滅から54年が経ち、年々参加者は減少。

今年も「来年辺りでこの会も終わりにしようか」
という話題が真剣に相談されることとなった。

それでも、会が始まれば酒の酔いも手伝って、
それぞれが思い出話に花を咲かせていた。

チーム初年度54年の開幕戦マウンドに上がった滝良彦。
(写真・下段左から二人目)
82歳の滝さんはわざわざ名古屋から駆けつけてきた。

まだまだお酒もいけるらしく、焼酎の水割りを頼むときも
「焼酎、濃いめにね」と、係の人に頼み、
持ってきてもらったグラスを傾け「まだ薄いな」とひと言。

「長谷川さんも呑みなよ」と別のグラスを手渡された。
その水割りを一口呑むと、かなり濃くて笑ってしまった。

今年78歳の佐々木信也さんは相変わらずの美声。
(写真・上段一番左)
佐々木さんはチーム最終年56年のスーパールーキー。

新人王のタイトルは「鉄腕」稲尾和久に譲ったものの、
新人で全試合、全イニング出場する大活躍を見せた。

その後、『プロ野球ニュース』のキャスターとして、
大活躍したのはご存知の通り。

みな80歳前後の好々爺でありながら、
元プロ野球選手だという不思議な感じ。

『最弱球団 高橋ユニオンズ青春記』取材中に、
いつも感じていたこの感覚は、このときも感じた。

僕が参加させてもらうようになって、今回が三年目。
完全な部外者だけれど、それでも楽しい会だ(笑)。

新規メンバーの参加は、もう見込めないけれど、
それでも、同じメンバーでぜひ来年も集いたい。

2011年10月28日金曜日

明日は高橋ユニオンズOB会!


拙著『最弱球団 高橋ユニオンズ青春記』が発売されて一ヵ月が過ぎた。
多くの方にご感想をいただき、恐縮しているところ。
みなさま、本当にどうもありがとうございます。

さて、明日29日は、高橋ユニオンズOB会が開催される。

僕は2009年から参加しているので、今年で三年目。
たかが三年目だけど、それでも、この時期になると、
「今年もいよいよだなぁ」という気になっている。

これまでOB会に参加されていた方が今年お二人亡くなられた。

現存するチームではないので、OB会出席者は年々減り続ける一方だ。
今年は、実際のOBよりも、僕のような部外者の方が多いかもしれない。

明日は、本書出版のお礼をぜひしたい。
そして、編集部が作ってくれた「ユニオンズTシャツ」を、
全員で着て、記念写真を撮りたい。

土曜日の昼下がり、幸せな空間で心地よく酔いたい。
明日に備えて、体調も万全に整えた。
明日が来るのが、とても楽しみで仕方がない。


※写真は昨年のOB会の様子。

2011年10月9日日曜日

スタルヒン、ユニフォーム展示中!


ちょっと調べものがあって、先日、野球体育博物館へ。

現在、同博物館では、

「大ユニフォーム展Part1 1900~1950年代」

が開催中。

ということで、トンボユニオンズ(1955年)時代の、
スタルヒンのユニフォームが展示してありました!

メーカーがミズノ製だったことに驚いた。
もし、東京ドームに行かれる際は、ぜひどうぞ!

2011年10月6日木曜日

高橋龍太郎氏に出版報告を……


サッポロビール本社に隣接する恵比寿ガーデンプレイス。
その片隅に、恵比寿神社と呼ばれる、小さな社がある。


さらにその一角に、高橋龍太郎の銅像がある。


本日(6日)、別件取材で近くを訪れたので、
遅ればせながら、龍太郎さんに出版報告をした。

拙著『最弱球団 高橋ユニオンズ青春記』にあるように、
龍太郎さんは、私財を切り崩してチームを運営し続けた。

そこには「野球が好き」という純粋な思いと、
「パ・リーグのため」という使命感があった。


しかし――。


龍太郎の奮闘は、結果的に報われることはなかった。
発足から三年、ユニオンズは解散を余儀なくされた。

チーム解散が決定した瞬間、龍太郎は近くの新聞記者につぶやいた。


「みんな無駄だったね……。同情してくれるかい?」


……それでも僕は「決して無駄ではなかった」と思いたい。
龍太郎さんの決意と覚悟があったからこそ、
今日に続くパ・リーグの歴史があるのだと思いたい。


遅ればせながら本日、秋晴れの恵比寿で、
龍太郎さんに、ようやく出版報告をすることができた。

2011年10月5日水曜日

旧ユニオンズ戦士、ベースボールカードに!


高橋ユニオンズ創設一年目の1954(昭和29)年、
主に五番打者として活躍したのが小田野柏氏だった。

日本初の天覧試合ホームラン打者として有名な小田野氏は、
戦前のプロ野球草創期から活躍する伝説的な打者だった。
小田野氏は現在94歳で、今でも元気に暮らしている。

拙著『最弱球団 高橋ユニオンズ青春記』は、
元々は『野球小僧』誌の連載をベースに、
単行本用に追加取材をして、加筆訂正を施した作品で、
僕は連載中に、小田野氏にお会いして話を聞いた。

当時92歳になる頃だったけれど、記憶も確かで、
以前このブログでも書いたように、手帳をお借りして、
原稿執筆の際に、とても頼りになった方だった。

その小田野氏が、時を超えて平成の現在、
ついにベースボール・マガジン社のカードになった!


小田野氏がカード化されたのが、
ベースボール・マガジン社から発売された、

「ライオンズ・クラシック2008-2011」


08年からスタートした埼玉西武ライオンズの好評企画
「ライオンズ・クラシック」をモチーフに、
新旧ライオンズ戦士たちがカード化されることになり、
そこで、西鉄ライオンズに所属していた頃の雄姿が、
この平成の世になって、見事にカード化された次第。


『野球小僧』誌での連載を見ていたカード担当者から、
「小田野さんの連絡先を知りたい」という連絡を受けて、
その仲立ちをした関係で、僕もカードを頂戴することに。


率直に言えば、ユニオンズ時代をカード化してほしいけれど、
ぜいたくは言っていられない。
このシリーズには、もう一人のユニオンズ戦士、
深見安博氏もラインナップに名を連ねている。

とってもカッコいいカードなので、ご興味のある方はぜひ!

2011年10月2日日曜日

発売から10日後、一通の手紙が届いた……


拙著『最弱球団 高橋ユニオンズ青春記』発売から10日が過ぎた。

著者である僕のところにも、お読みいただいた方からの感想が、
少しずつ耳に入ってくるようになった。

また、取材でお話を聞いたユニオンズOBたちからも、
「どうもありがとう」とお礼のお電話や手紙をいただいた。
そして、本日(1日)、またまた嬉しい手紙が届いた。

それが本書の第四章、第五章に登場し、
物語後半のキーパーソンでもある西本道則氏からの手紙だった。
西本は、ユニオンズ解散時に19歳の新人選手だった。

高校卒業後、一浪中の西本は叔父の勧めで、
ユニオンズのテストを受験し、見事に合格する。

そして満を持して2月からのキャンプに臨んだものの、
キャンプ中にもかかわらず、チームは突然解散する。

つまり彼がユニオンズのユニフォームに袖を通したのは、
わずかに三週間程度だった。

一度も公式戦を行うこともなく、
「大人の事情」で、彼は大映ユニオンズに移籍することになった。

それは、当時19歳だった少年に、突然訪れた試練だった。
そして西本は、わずか一年のプロ生活でグラウンドを去っていく。


福岡県の朝倉郡に住む西本の自宅を訪ね、当時の話を聞いた。
当時19歳だった少年は、年月を重ねてすでに74歳になっていた。

このとき聞いた西本の話には胸が詰まる思いだった。
まったく事情がわからないまま、
不安な心持ちだった日々を、丁寧に振り返ってくれた。

本書を読んで下さった方からも、
「西本さんのエピソードに胸を打たれた」という声を聞いた。
本日届いたのは、その西本からの礼状だった。


「当時は私も田舎出の子どものこととて、右も左も全くわからず、
 自分の目先のことだけに五里霧中で全体像は全くわからないまま、
 時は流れてしまっていましたが、ユニオンズの発足から解団に
 至るまでを本書で教えていただき、今改めて感動しています」



「古稀を過ぎ、余生いくばくもないであろう私には
 最高のプレゼントを贈っていただき唯々感謝するだけです」



多くの読者に読んでいただくことももちろん嬉しいけれど、
取材対象者からの感謝の言葉もまた、格別な喜びでもある。


「無事に出版できてよかった」という思いに加えて、
自らのことを「余生いくばくもない」ととらえている人に、
「間に合ってよかった……」、そんな思いも、確かにある。

2011年9月29日木曜日

ワースト記録とともに生きる日々……


『最弱球団 高橋ユニオンズ青春記』の取材を通じて、
ユニオンズOBたちに何人にも話を聞いた。
元選手たちは、みな70代後半から80代を迎えていた。

「最弱球団」と揶揄されていたチームではあったものの、
チーム解散からすでに60年弱が経っていたため、
「ホントに弱かったんですよ」と、みな笑顔で振り返ってくれた。

しかし、ただ一人だけ「例外」があった。

1954(昭和29)年6月12日――。

この日、ユニオンズの三番手としてマウンドに上がったのが、
新人で、プロ入り二試合目の出場となった田村満だった。

マウンドに上がった田村はまったくストライクが入らず、
1イニングで7つものフォアボールを与えてしまう。

「1イニング7与四球」というのは、
現在まで破られていないワースト記録となった。

この日のことを聞こうと、編集者が田村に連絡を取ると、
取材に対して乗り気ではないようだったという。

それでも、交渉を続けていると、
「私には私の言い分があるんです」と、
取材を受けてくれることになった。

そして、彼の住む富士市に出向いて話を聞いた。

取材は3時間に及んだ。初めは訥々と語る田村だったが、
ワースト記録の場面になると、次第に口調が重くなった。
それでも、田村は誠実に記憶の糸を手繰り寄せてくれた。

あの日、田村はどんな心情で、
川崎球場のマウンドに立ち続けていたのか?

詳しくは本書で振り返っていただくとして、
取材終了後、田村の口にした言葉が忘れられない。


「……まさか、あのときのことをこんなにしゃべれるとは
 自分でも思ってもいませんでした。自分でも驚いています。
 私の話を真剣に聞いてくれたのはあなたが初めてだし、
 本当のことを話せて長い間の胸のつかえが取れました。
 本当にどうもありがとう……」
 

大柄な田村が窮屈そうにお辞儀をする姿が強く印象に残った。



……本書刊行後、田村からメールが来た。
そこには、次のように書かれていた。


「これが私の青春期のすべてですね。
 ありがとうございました」